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旅と本・5

読書記録。
食べるとはどういうことか-世界の見方が変わる三つの質問 著・藤沢辰史

著者である藤原辰史さんと12〜18歳の学生さんへの問いかけを座談会形式で記された一冊です。

◎いままで食べたなかで一番おいしかったものは?
◎「食べる」とはどこまで「食べる」なのか?
◎「食べること」はこれからどうなるのか?

この三つの問いへの議論の記録です。

この春の旅の際、
移動中の一冊にとmy積読本棚から選びました。
冒頭の「この本を手にとってくださった方へ」を読んでいる時点ですでに、
この本を選んで正解だった!と感じました。

-「この本を手にとってくださった方へ」より抜粋
座談会の初めには、先生という役割と生徒という役割をもってその場にいましたが、最後のほうにはそれも崩れ始めてきました。問いの前に人間は平等だからです。知識には差はありますし、経験値も違います。厳しいけれども、それは認めざるを得ない。ただ、問いの前、言うなれば、学問の神様の前ではみなさん当然平等です。

とことん考え抜こうとする人はすべて、子どもも大人も哲学者の卵です。安易に「検索」に頼らず、シンプルな目線で、言葉を大切にしながら、ものごとの芯の部分を見抜く試みを続けること、つまり「考え抜くこと」は人間にとってとても大切な行為です。そうしないと、世の中の仕組みを表面的にしか理解せず、簡単に「えらい人」にだまされやすくなります。


子ども時代に、
こんなふうに耳を傾けてくれる大人や
知恵を授けてくれる先生に出会えたら。

それは、経験という誰にも奪われず価値の下がることもないその人の絶対的な財産になる。と思いました。

長い空腹後の食事のように、一気に読みました。

頭がお腹いっぱいになりました。


-本文より抜粋

食べものから噛みごたえがなくなっていく未来。わたしは望ましいものではないと思います。噛むということは、飲み込むことでは得られない栄養を体内に取り込むために必要な行為でありますが、わたしはもっと重要な意味合いがあると思います。

人間は噛みます。脳内に血が巡ります。しかしそれだけではありません。噛むと食事中に時間が生まれます。この時間が、食事に、「共在感覚」、つまり「同じ場所に・ともに・いる」気持ちを生み出すのです。この遠回りの行為が、給油のように直接消化器官に栄養補給しないことが、人間を人間たらしめているように思えます。たとえば、食材である生きものやそれを育ててくれた農家や漁師のみなさん、あるいは、料理をしてくれた人に対して感謝の気持ちをもつことも、人間ならではの感覚だと思うのです。


食べものをちゃんと体にいいものに変える能力をもった。それは何かと言うと、火です。人間が動物と違うのは、火を使うことができるようになって、火で生きているものを殺したり、生きているものを食べやすくしたりして、口の中に入れる。あるいは、棒で叩いたり、刀で切り刻んだりして食べる。そうすると、とても消化がいいので、良質の栄養をゲットすることができて、人間は文化を発展させたということが言われています。
つまり何を言っているかというと、(「噛む」ということが「食べる」ということ)、「噛む」ということが大事だって言ったよね。これは本当にそのとおりで、ちゃんと噛むことがどれだけ大切かということは、いろいろな生物学者によって言われているんだけど、実はこの「噛む」というのは、丸飲みしたら食べられないものを、胃腸で消化しやすくする行為ですよね。
ゆっくりじっくり噛むということはすごく人間的な行為です。そして、実は包丁で刻むことも、火であぶることも、あるいは蒸すことも煮ることも、全部、人間の「食べる」という行為の前哨戦というか、前触れなんですね。


<フジハラ)「栄養を摂る」という言葉が出ましたね。栄養を摂るってどういう意味ですか?
「食べる」とはどこまで「食べる」なのか?
食べることとの違いは?
<リョウタロー>食べるっていうのには、文化的な要素がある。
<フジハラ>文化? 文化の要素がある。
<リョウタロー)なんか、それで栄養を摂るというのは、ただただ生理的な要素だけある。
(フジハラ)大事な言葉が次々に出てきましたね。何度も繰り返しますけど、答えのないものに向かって自分のもっている言葉を駆使してしっかりと順を踏んで考え抜く、これが、いいですか、哲学という行為です。


繰り返しますけれども、今日の議論には答えはありません。答えを探すことが目的ではなくて、みんなに「考える種をまく」ということが今回の目的だったので、そういう意味では、今日の目的は達せられたかなと思います。